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2014/3/9 東京精神分析サークル主催コロック@駒澤大学についてのメモ

①河野一紀先生
Twitterでの感想からもう少し詳しくしたものです。

フロイトの倒錯は、「性理論のための三篇」から取り上げると、性的魅力を持った人間(=性対象)という対象倒錯が最初の着想である。更にフロイトは、健常者でも目標倒錯(固着につながるもの?)があるとしている。ここに、倒錯の一般化のテーゼが現れている。病的には、占有と固着であるとした。フロイトの倒錯は、性欲動そのものの倒錯性=享楽の倒錯性(享楽のあり方に関わってくる)についての話である。フロイトが倒錯をエディプス・コンプレックスや女性、否認と関連づけたのは、1920年代以降の話である。つまり、フロイトの倒錯概念は、一次的、一つのものとして考えるのは、少し不適当である。
一方ラカンは、根底では、1964年の基本概念のセミネールで「欲動は倒錯ではない」と言っていることを考えると、欲動の倒錯性を考えるのは、少し不適当である。
ラカンは、倒錯というものが、エディプス・コンプレックスや女性との関係から神経症と精神病と比較検討される、主体の臨床構造としての倒錯の話をしていることがあるので、そこを見極めなければならない。
つまり、フロイトラカンの言っている倒錯は、それぞれ違うことがある。同じものとして扱ってはいけない。
また、欲動の起源でもフロイトラカンは、同じようなことを言っているようで、実は違っている。
フロイトは、性欲動(=欲求)は、身体の内側から生じるものであり、その源泉は、満足や目標の推論からわかる。
それに対して、ラカンは、新たな視点を導入した。欲動は、身体と言葉(パロール/ランガージュ)の出会いに由来。欲動は、基本的にランガージュという他者、シニフィアンが構成条件としている限りにおいて、それは必ずしも主体性相手に出会うわけではない。大事なのは、生きているもの(vivant)に対して、パロールが出会うと、そこで喪失が生まれる。つまり、欲動はあくまで本能とは違う。これは、自閉症とも関連する。ラカンの「無意識のポジション」という論文でも取り上げられている。そこでラカンは、セクシャリティというのは、一方(生きているもの)と他方(他者)と二つに振り分けられる。他者の側は、シニフィアンの主体や男女の性差を否定する。一方の側は、「反対の性の他者へのアクセスは、いわゆる部分欲動を介して以外には存在しない」(1960,p.849 レジュメから引用)としている。
ここに、ラカンフロイトの違いがある。フロイトは、ファルスというものによって他の性器たるとしているが、ラカンは、欲動の性器的統合の考え(=部分欲動の統合)には、基本的に批判している。他の性器たる手段は、部分欲動でしかない、としている。
欲動に関して言えば、価値判断(?)の縁を出て、対象のまわりをめぐって、またその縁に帰着する図式の回路を作っている。そこで機能しているのは、対象aである。つまり、欲動が問題になる時、そこで問題になっている他者は、身体ではなく、対象aである。小文字の他者でしか問題にならない。対象aに還元されてしまう。ラカンはアンコールで、それを倒錯としている。このようなところから、欲動あるいは対象aが問題になる時、人間のあらゆる享楽は、倒錯ということに形容できる。(→Soler,Cは、ラカン精神分析的行為のセミネールのまとめで「享楽は倒錯的なものとして不可能ではない」としているところから、享楽は、一方で話す存在にとっては、倒錯的な部分もあり得る→ファルス的享楽と剰余享楽の組み合わせ=一般化倒錯を用いている。(ラカンフロイトも言っていない新しい理論))
また、享楽のためには、他者の身体が必要。それは、身体と身体の交接に由来ではなく、ランガージュの生きた身体への効果に由来する。→性関係はない(il n'y a pas de rapport sexuel)。その剰余享楽という形で問題になる対象aは、象徴的去勢効果としてあらわれる=シニフィアンの主体にとって幻想を作り出し、その原動力や羅針盤として機能する。
ラカンは、当初は享楽というものを表立って問題にしておらず、主体の構造において欠如の位置づけをどうするのか、というエディプス・コンプレックスや去勢の話をしていた。
徐々に享楽というものが問題になってくると、幻想(ファンタスム)の問題が前面に出てくる。
ラカンは、ファンタスムを、S/◇aという式で考えている。この式では、aしか問題になっていない。
幻想というものは、シニフィアンの領野における他者の中にある穴を指し示していて、そこに何らかを見いだすものを可能にする。それは、欲動の回路形成と密接な関係にある。また、幻想は対象の分離、あるいは対象の抽出、そういうもので成り立っていて、現実的なものに対するスクリーン、他者の享楽に対しての防壁として機能する。ここの根源的な幻想がきちんと機能するかどうかで、神経症/精神病と分ける。
一方で、幻想は何かを分離して隠すだけではなく、何かを示している。幻想によって享楽を得て満足している。
また、欲動というものは、回路を作っている。それは、欠如の固定化、対象の分離と関わる。こうした分離の作業は、通常、去勢というもので、問題になっていた。ここで言う去勢は、第二の去勢のことを言っている。エディプス・コンプレックスの問題は、象徴的去勢(第一の去勢、誰もが被る)+そこにどのような享楽や構造を作っていくか=第二の去勢
ここで問題になるのは、主体の臨床構造、選択の問題。更に問題になるのは、父の機能。剰余享楽をどういう形で凝縮するか→欠如の固定化、構造化。同時に、剰余享楽の対象を発見して命名していくプロセスでもある。
そして、去勢というものを現代の問題(科学技術と資本主義)と絡めて考えると、ラカンは、資本主義のディスクールの話をする時、去勢の排除や愛の拒絶ということを言っている。そこで問題になっているのは、誰もが被る象徴的去勢の接ぎ木となる、第二の去勢が上手くいかなくなる(=去勢の欠如・排除)こと。ラカンは、資本主義のディスクールがもたらすものは、「剰余享楽によってしか位置づけられない」(1973,p.534 レジュメ引用)と言っている。これまで倒錯性というものは、ラカン精神分析によると、愛によって包み隠されている(=それが露わにはならない)ものであった。しかし、資本主義がそれを無視→覆いが取れて、享楽の倒錯性が露わになる。
ここからは、着想だが、ここで問題になる2つを取り上げる。①シニフィアンの次元での問題(他者の側)②剰余享楽の問題(生きたものの側)である。
①には、まず、オロフラーズ(holophrase:一語文)がある。シニフィアンの主体と言われている、主のディスクール(無意識の主体のあり方をあらわす)がある。S1→S2のシニフィアン連鎖で、S1とS2がくっついてしまい、一つの言葉、記号になってしまう。そこには、間があったり、他者の欲望を問うたりする。シニフィアンは一次的に解釈されるものではない。それは、もう一つのデビリテ(débilité:虚弱?)と関わってくる。このことは、立木康介先生の「露出せよ、と現代文明は言う」のあとがきで触れられていた概念である。そこでは、隠喩、メタファーがなくなる→記号的なコミュニケーションが優勢になる、ということが述べられていた。
対象の次元での問題である②は、ガジェット(gadget)とラスーズ(lathouse)(=パロールを回避した享楽?)がある。資本主義のディスクールのa→S/の部分は、aはS/に直接影響を与えることを示している。斜線を引かれているのは、欠如があるということ。それを埋め合わせるようなものとして色んなものが作り出される。そうなると、ファンタスムが維持できなくなる。それは、欲望の次元にあるものを生理的欲求と還元して考えるのは、不可能だが、資本主義のディスクールでは、欲望を欲求に還元して考えている→欲望が弱体化→その結果、幻想も弱まる?ことがある。もう一つ指摘すると、ラカンは、「科学が一つの幻想に過ぎない」と言っている。そのようなことを考えると、主体が科学の幻想にとらわれるのが起こる時、デビリテと関連づけて考えたい。デビリテでは、主体が他者の欲望(幻想)に取り込まれる(by ラカン)ことを、資本主義のディスクールだと、科学の幻想に取り込まれる主体になる。
最後に、単に資本主義や科学技術を批判するのは、十分ではない。そこからどのように精神分析に寄って可能性を引き出すのかということが必要である。
ガジェットやラスーズは、話すことを回避した享楽である。そうした対象に魅力を与えたり、維持しているのは、剰余享楽である。単にそれを主体からはがしてしまうのは、結局、別の対象への置き換えや他者に対する迫害感の強化になったりする。だから、そうした対象aへの耽溺に批判するだけではなく、そこにどのように介入していくのかを考えなくてはならない。そうした場合、主体がどのように用いているのか、どのように語るのか、そこから可能性を持つ。また、ラカンは、ガジェットやラスーズといったものは、症状になりうるものとしている。ラカン派のオリエンテーションは、現実的なものだったり、享楽というものに関わると考えるならば、症状は、苦痛を与えるものでもあり、満足を与えるものでもある。より主体に満足を与えるものに変えていく作業を可能ならしていくべきである。

…以上です。ぐだくだまとまりのない下手な文ですみません。間違いや何かありましたら、ご指摘お願いいたします。
感想は前のような感じです。河野先生は、丁寧に優しく発表されている姿が印象的でありました。懇親会でも色々と優しくお話をしてくださいました。